聖なるズー 濱野ちひろ を読んで心に浮かんだこと
この本をまだ読んだことがない人用にはじめに注釈:zoophilia、「動物性愛」の人間側当事者を省略して「ズー」とこの本で言っている。
パーソナリティと対等ということばがこの本に多く出てくる。
パーソナリティという概念
0655 「あたしねこ」という歌の歌詞: あたし猫だからこの人の言葉わからない。あたし猫だけどこの人の気持ちなぜかよくわかる。
この本で、重要な概念、「パーソナリティ」。
本の中では、動物が人のパーソナリティをわかっているかどうかはわからないようだった。
NHKの0655という番組では、ねこが「人の気持ちをわかる」と歌っている。ねこも人の「パーソナリティ」をわかると言っている???
対等という概念
京都大学教授 木村大治先生が、
放送大学 人類文化の現在:人類学研究 第7回「ケアという文化の生成」
の中で、対等について説明している。
平等というのはある範囲を設定する必要がある。
下記例は、私が別に捜したもの2点。
1.義務教育。すべての日本人の子供に平等に、教育を受けさせなければならない。とされている。
平等というのは「範囲」、この場合、日本人という範囲を決めないと、成り立たない。
そして、今日本に住んでいる外国籍の義務教育年齢の子どもたちが1万9千人も??学校に行っていない??(日本経済新聞電子版 2019年9月27日 18:20 外国籍児1万9千人が不就学か 文科省、初の全国調査)
平等社会である日本では、このようなことは憲法違反にならない。
2.学校の学年。1年生の4月生まれと2年生の3月生まれでは誕生した日付は1日違うだけの可能性がある。
同級生は12ヶ月の範囲の人だから、11ヶ月と30日年上・年下でも同級生。同級生の間では平等だが、1日違いでも先輩・後輩という平等では無い??立場になる。
それに対し対等は、1対1の関係。双方が対等だと思えば(思わなくても?)、年齢、貧富、知識、ジェンダー、障害の有無などで違いがあっても、対等となる。
もちろん平等・公平という概念も重要な役割を持っている。対等という考え方が、平等より優れていると言っているわけでは無い。しかし今の日本で常識となっている平等という価値観を徹底させようとすると生きづらさが生まれてくるのかもしれない。
てなことを、教えてくれた京都大学教授木村大治先生の考えを著者は当然よく知っているはず。
私が気になったのは、著者はドイツで英語で会話していたが、対等に対応する英語はなんだったんだろうか?
パーソナリティは、ピッタリと合う日本語(漢字語)が見当たらなかったようだが、対等の方もカタカナ日本語だと悲しかったかもしれない。この対等ということばが木村先生によって定義?され、そのことばが非常に多く本の中で使われているのは嬉しかった。
最後に、
食料品店で棚に、包装に犬猫の写真を使った犬用および猫用食品がある。
50年前の私が時間旅行で現在に来て、食料品店でこのような製品を見たら、多分「未来では、食料不足で犬や猫まで食べるようになったのか」とびっくりするかもしれない。
それが今では聖なるズーを読んで、読書感想文を書いているなんて、随分社会が変わったものだと思う。
豊かになったのかなぁ??
あと、離乳食より犬猫の食料品の方が価格が高い。
これも50年前の自分が知ったらびっくりするだろうな:−)